ことばを持たない犬のりずこと暮らしています。犬は、長い長い時間をかけて人に寄り添うように作為的につくられてきた動物です。ことばを持たないながらも、飼主の言葉に全力で集中して、意図を汲み取ろうとします。
ことばの宿り方
犬はトレーニング次第で100以上の言葉を理解できるようになります。犬の脳は、ことばを覚えはじめた人間の幼児と同じように、左脳で人間の言葉の意味を解釈し、右脳で言葉を発した人の声のトーンや表情、しぐさを読み取って、意味と意図の両方を合わせてメッセージを受けとっています。笑顔の飼主がやさしいトーンで発した「いいこ」などの褒め言葉には、しっぽをゆっくり振って喜びの感情を示しますが、厳しい強いトーンで、仁王立ちで怖い表情の他の人が発する「いいこ」には反応しません。言葉をどう伝えるかが、とても大切なのです。
人間は、幼児期に左脳の言語中枢が発達して、右脳で処理される「どう伝えるか」の情報には左右されずに、言葉の意味だけを処理できるようになります。幼児が家でパパやママに「いいこ」と褒められるうちに、保育園のお友達がいいことをしたときに「いいこね」と発したりします。自分に向けられた「いいこ」という言葉の意味を、異なる状況でも展開することができるようになるのです。犬の脳は人間の2歳児程度の段階で成長が留まるので、「いいこ」という言葉を「望ましいふるまいをする動物や子ども」という概念的な意味で理解することができません。
言葉の意味と伝え手の意図
言葉を得て成長する人間は、自分の手足のようにことばを操れるようになります。言語中枢で何万語もの言葉の意味を処理し続けています。溺れるほどの言語情報を浴びながら暮す私たちは、幼い頭にことばが宿った頃のようには、伝え手の声のトーンや表情に感覚を研ぎ澄ませることはできません。言葉の意味を自分なりの理解で処理し続けなければ、猛スピードで流れ去る言葉のスピードに取り残されてしまいます。伝え手が、どんな思いで、どんな態度で、その言葉を発したのか、そんなことに思いを巡らせる暇はありません。言葉の意味と伝え手の意図が乖離した状態のまま、言葉の応酬が続いていくことも、多々あります。
これが、ことばしごとの最も難しい課題のひとつです。言葉は、伝え手の意図をそのまま伝えてくれるわけではない。言葉は、嘘だってつける。人間社会は言語の発達によって繁栄してきたとも言えるけれど、言葉によって腐敗し、破壊されてもきたのです。これまで長い時間をことばしごとに費やしてきましたが、諸刃の刃を扱うことの緊張感は片時も薄れることがありません。
ことばを持たないりずこは、私が言葉に込めた意図のみならず、言葉の意味に隠した感情もお見通しです。私が発する言葉だけでなく、声や呼吸のゆらぎも、緊張の発汗やストレスホルモンのにおいも、全部察知されています。たぶん、愛おしさにあふれた「オイデ」と、せっかちな「オイデ」はまったく別の言葉に聞こえています。嘘は、つけません。
同じように、ことばを宿した頃の遠い記憶が微かに刻まれているはずの私たち人間も、やはり、意図をまっすぐ伝えることができる言葉を選ぶべきだし、言葉に嘘をつかせてはいけないと思うのです。言葉の意味、伝え手の意図、そして心、すべてが調和した状態が「伝える」ことの本質なのではないか、諸刃の刃を扱う道は、この調和を目指すことではないか。そんなことを、犬に教わっているところです。