美しいことばを溺愛するための『ことばギャラリー』で、なぜ、びっくり?!と、びっくりなさらないで。『びっくり』は驚くほど不思議な力を秘めたことばなのです。
びっくりしたら、驚かれた
いつも通り出勤すると、自分の席にパンダが座っていたら。「ああ、びっくりした!」って、口をついて出てきますよね。地域によって「たまげた!」などの違いはありますが、日本語を母国語とする多くの人が、幼児から老人まで「ああ、びっくりした!」と反応します。
アメリカで暮らしていたときのこと。いつの間にか、夢も英語、寝ぼけても英語になっていたのに、驚いたときだけは、とっさに「ああ、びっくりした!」が飛び出します。その日本語に、周囲のひとたちが驚くのです。「え?今なんて言った?」「い、今の呪文みたいなのは何?!」
一度や二度ではありません。「ああ、びっくりした!」を初めて聞く人も、何度か聞いている人ですら、びっくりします。「驚いたときに、そんなに長い、舌を噛みそうなことばを、よく言えるね」ということらしい。日本では、言葉を覚えたての2歳児でも「ああ、びっくいちた!」って言うけど。私も彼らの反応に、またびっくりです。
吃驚(びっくり)のメカニズム
びっくりの語源は、身体が僅かに動く様子を表す擬態語のビクリ。魅惑の日本語オノマトペの世界へようこそ!です。驚いたときに身体がビクっとする反応は、人類だけでなく多くの動物にも共通する原始的な反射です。
驚きというのは、あらゆる感情の中でもっとも原始的で、もっとも特異なものです。驚きの瞬間、人の身体はビクリと硬直し、驚きに支配された状態になります。驚くこと以外、何も感じられず、考えられず、動くこともできません。予期せぬ刺激に遭遇したら、それが危険なものなのか、価値のあるものなのか、即座に判断しなければなりません。私たちの脳は、驚きの瞬間、全身全霊でその刺激だけに向き合うように、つくられているのです。
そして、その瞬間はあっという間。喜びや悲しみといった感情とは違い、人は驚き続けることはできません。刺激の危険性あるいは価値を判断したら、すぐに逃げるなり、確保するなりの行動に移せるように、驚きの支配は一瞬で解けます。「ああ、びっくりした!」は、過去形です。いい刺激にしろ、悪い刺激にしろ、驚きが引き起こす心身の大きなストレス状態からの解放が、「ああ、びっくりした!」になるのです。
では、なぜアメリカ人は「ああ、びっくりした!」に驚くのか。心身の硬直状態から解かれた瞬間に発するには、難しい言葉に聞こえるからです。8拍という長さもありますが、音が、強く硬いのです。「ああ」は、緊張が解けた瞬間の武者震いのような音ですが、山になる音「びっく」は、強さを感じさせる破裂音、促音に続いて、硬さを感じさせるk音の連続。そして「りし」で一旦静まってから、再び硬く強い語感をもつ「た」で終える。ある意味、驚きという究極の緊張の追体験のような言葉にも聞こえます。
うれしいときに、「ああ、うれしい!」と自覚するように、驚きの瞬間は、自分が驚いた状態にあることを自覚することはできません。「ああ、びっくりした!」と口にすることで、「自分は驚いた状態にあったのだ」と自覚して、冷静に状況判断できる状態に戻るように自分を促すことができるように思います。
豊かな感情表現とは
「ああ、びっくりした!」に驚いたアメリカの友人たちが、驚いたときにどんな言葉を使っていたかというと。これが、驚きの百人百様なのです。言葉にならず、ただ叫ぶ人が多い印象はあります。言葉を発しても、ほとんどがah, oh, wowなどの間投詞や、good lord, geez, gosh, holy cowなど、驚きだけでなく、感情の高まりを表現するシンプルなもの。英語には、感情を表現する言葉が実に豊富にあります。直接的な感情表現をよしとする文化だからでしょうか。
「ああ、びっくりした!」の英訳として、”you scared me!” “I was freaked out” “what a surprise!”などの表現が紹介されることはありますが、こうした表現は、ひとしきり叫んだり、短い間投詞や感情表現を発したあと、一呼吸二呼吸おいてから使われます。日本人が「ああ、びっくりした!」を発するタイミングで使われることは、まずありません。物陰から飛び出して「わっ!」と驚かせたら、「ぎゃー、わー、ああ、神様!」なんてひとしきり叫んで、ぜえぜえはあはあした後で、けたけた笑いながら「ああ驚いた」と言う感じ。もちろん、ほとんど動じず、反応の薄いアメリカ人も、中にはいます。個性豊かな国民性ですから。
英語は、感情表現も多種多様ですが、「驚き」を意味する言葉も豊富です。surprise, amaze, astonish, startle, stun, astound, dumbfound, stagger, freak out, blow away…まだまだあります。「驚き」の状況や、その人の個性に応じて、さまざまな表現ができるのです。
驚きという情動は、動物的。国境などありません。ですが、そこに輪郭を与えるのが言葉。さまざまな切り口で、百人百様の驚きを切り取る英語と、「ああ、びっくりした!」で、即座に心の揺らぎを整える日本語。興味深い違いです。
自分自身に伝える
驚きは、「伝える」仕事にとって非常に重要なテーマです。芸術では、驚きによって人を惹きつける手法が古くから使われてきました。有名なものでは、ハイドン作曲の通称「びっくり交響曲」、歌舞伎の早替りなど。現代の競争社会では、いかに人を驚かせることができるか、あらゆる企業が鎬を削っています。
ですが、驚きを表現する言葉「ああ、びっくりした!」は、誰に伝えるためでもなく、自分自身に伝える言葉。音の強さとは裏腹に、とても内省的で、静謐な、染み入るような、深い力を秘めたことばだと思います。