コンテンツへスキップ

Collection #1: ありがとう

おそらく日本人がもっとも好きな言葉『ありがとう』が、ことばギャラリー収蔵品#1。こんなにもありふれた、こんなにもありがたい言葉を、他に見つけることができません。

ことばが伝える心の内側

少し難しい事情を抱えた、とても繊細な犬と暮らしています。ことばを持たない彼女に、私たちのこの小さな世界が怖い場所ではないことを、なんとか伝えたい。試行錯誤を続ける中で、この夏、声かけを見直しました。そこで『ありがとう』という言葉を、愛犬のために使い始めたのです。

犬は言葉の概念や意味は理解できませんが、言葉を音として捉え、特定の音を合図に発生する良い刺激、嫌な刺激を関連づけて記憶することができます。『ありがとう』を使う場面は、愛犬が苦手な状況を受け入れてくれたとき、犬の習性に反して人間の都合に合わせて行動してくれたときです。『ありがとう』と声をかけて、ご褒美をあげます。嫌な刺激を克服したらいいことが起こることを、『ありがとう』の音で記憶に刻むのです。

これまでも誉め言葉は使っていましたが、「グッド」「グッド」と言いながら強引にブラシングをし、「おトイレ上手、グッドガール」と棒読みしながら、さっさと背を向けて片づけする、そんな口先だけの使い方です。犬は、言葉の意味を理解しない分、人間の声のゆらぎや、人表情やしぐさ、言葉を発するときの感情によって分泌されるホルモンの匂いを、敏感に感じ取っているそうです。つまり、言葉を文字通り受け取ってくれるチョロい相手ではないということ。

愛犬にも飼主にもストレスがかかる状況で積み重ねてきた「グッド」は、むしろ嫌な合図として記憶されているかもしれない。そこで、愛犬と私の新しい約束として、いくつかの候補の中から『ありがとう』を選びました。

音としての言葉の力

ことばづくりは、「思い」や「感情」を扱うクリエイティブな仕事ですが、プロセスは科学的です。科学的根拠に基づく判断の積み重ねによって、創造するための土壌を耕します。愛犬への合図となる言葉選びでも、言葉を科学的に掘り下げました。

ことばを持たない相手に使うとき、『ありがとう』は音です。音としての『ありがとう』が、この上なくすばらしい言葉だったのです。『ありがとう』を言うとき、表情筋や声帯にほとんどストレスがかかりません。10回、20回繰り返しても大丈夫、音をなめらかに作り出しやすい。伝え手にも受け手にも、不快感のない音になります。

そして、日本人の身体に刻み込まれた安定の5拍5音節。この5音の流れが、ひとつの小さな音楽になっています。語頭『あり』は素直で穏やかな音。続く『が』は、「有難い」の「難い」なのだから、ハードな音感が生きてくる。やわらかな音の流れに小さな山ができ、ここで気持ちを乗せやすい。『とう』はその盛り上がりをよどみなく回収して、そっと収束させる。相手に語り掛け、気持ちを伝えて、そっと引く。押し付けがましくない、寄せて返す波のようなリズムです。方言によって少し波形が変わっても、この小さな波は全国共通。この波が、伝え手にも受け手にも心地いい。なんと美しい言葉なのでしょう。

もちろん、犬の耳が語感を感じ取るわけではありません。そして人間も、『ありがとう』を受けとるときは、その意味にこそ心惹かれ、音に魅了されるわけではないでしょう。『ありがとう』の美しさは、伝える側にやさしい音であるということ。『ありがとう』は、呼吸のように穏やかな気持ちを呼び起こして、ありがとうの気持ちを整えてくれる音だと、思います。

不思議な犬の導きで、使い古した『ありがとう』にもう一度出会うことができました。トレーニングの「合図」ではなく。ただ、生きて、ここにいてくれることに、ありがとう。

今後掲載予定の関連トピック: 

  • ことばの科学、音編
“10回に1回くらい『ありがとう』の気持ち入ってない。9回に免じて目、つぶってる。ことばを受けとるって、そういうこと。でしょ?”